東京地方裁判所 平成9年(ワ)12943号 判決 1999年1月25日
原告 X
右訴訟代理人弁護士 服部信也
被告 株式会社さくら銀行
右代表者代表取締役 A
右訴訟代理人弁護士 飯田藤雄
同 瓜生健太郎
同 松尾翼
同 吉田昌功
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告は原告に対し一五〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(平成九年八月六日)から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告が被告に対し、普通預金の払戻しを請求したところ、被告は、既に預金通帳及び払戻請求書を提示した払戻請求者に払戻し済みであると主張し、右払戻しの有効性が争点となった事案である。
一 争いのない事実
1 原告は被告との間に、昭和六一年九月二五日普通預金契約を結んで、被告高田馬場支店に総合口座(口座番号<省略>、以下「本件口座」という。)を開設し、平成九年一月一六日現在において普通預金として一七五八万七〇五六円を預け入れていた。
2 右普通預金契約は普通預金規定に基づいており、右規定には、印鑑照合について、「払戻請求書、諸届その他の書類に使用された印影を届出の印鑑と相当の注意をもって照合し、相違ないものと認めて取扱いましたうえは、それらの書類につき偽造、変造その他の事故があってもそのために生じた損害については、当行は責任を負いません。」という条項(以下「本件免責条項」という。)がある。
3 平成九年一月一七日午前九時二五分ころ、被告池袋東口支店窓口において、本件口座から一五〇〇万円が払い戻された(以下「本件払戻し」という。)。右払戻手続は、同支店窓口係のB(以下「B」という。)が担当した。Bは、払戻請求書の印影(以下「本件印影」という。)と通帳に添付された副印鑑の印影を照合し、同一であると判断した。Bの上司である業務課長代理C(以下「C」という。)も、本件印影と副印鑑の印影を照合し、同一であると判断した。
二 争点
本件払戻しにおいて、B及びCが本件印影を通帳の副印鑑と照合した際に過失がなかったといえるか。
三 当事者の主張
(被告の主張)
1 Bは、肉眼による残影照合、Cは、肉眼による平面照合と残影照合により、いずれも本件印影と副印鑑の印影を相当の注意をもって照合し、同一であると判断した。残影照合、平面照合は、いずれも銀行員が行う一般的な印鑑照合の方法であり、被告担当者の照合方法に何らの問題はない。
本件普通預金印鑑届の印影(以下「届出印影」という。)と本件印影は酷似しており、相当の注意をもって照合しても、肉眼でその差異は判別できない。原告の主張する相違点三点は、次のとおり、いずれも微細な差異であり、届出印影と本件印影が異なるものであると断定することはできない。(一)同一の印鑑を用いても、朱肉のつき方、押捺の方法によっても常に同じ印影が検出されるとは限らない。よって、線が太く滲みがあるというのは、印鑑照合の決め手にはならない。(二)外枠の円周部分が全体的に歪んでいることも、外枠の円周部分は、朱肉のつき方、押捺の方法によって、差異の出やすい箇所であることを考えると、これも印鑑照合の決め手にはならない。(三)外枠の円と字画が接する部分は、朱肉が溜まり、「宿肉」が発生しやすく、外枠や字画が不鮮明になることがよく見られる箇所である。
2 Bは、本件払戻しが、他支店を取扱店とする預金の払戻しで、かつ金額が一五〇〇万円と高額であったことから、慎重な対応をした。具体的には、通常の印鑑照合は、窓口の担当者一名で行うところ、Bは、上司のCに指示を仰ぎ、Cも印鑑照合を行った。また、Cは、取扱店である高田馬場支店より、普通預金印鑑届をファックスしてもらい、本件印影と照合したが、各印影は同一の印鑑によるものと判断したものである。
3 肉眼にて本件印影がコピーや印刷によるものであると判定することはできない。本件払戻請求書は、被告所定の払戻請求書そのものであり、本件印影は、届印を押捺すべき位置を示した点線の円内に、ぴたりと収まっている。コピーや印刷によりこのように精巧に印影を検出できるとは通常は考えられない。また、本件印影は、若干赤みが強いとはいえ、朱肉と同様の色である。よって、肉眼で見て、印顆による印影だと信じてもやむを得ない。
この点についての原告の主張に対しては、次のとおり反論する。(一)印顆による印影に、常にマージナルゾーンが生じるわけではない。着肉量が多い場合や押印圧が強い場合に生じやすいというだけである。よって、マージナルーゾーンの有無によって、印顆による印影か否かを判定することは困難である。(二)印影照合は、肉眼をもって行えば足りる。(三)本件印影を肉眼で凝視しても、細い印画について、印肉が凸状に付着しているか否かを判別することはできない。(四)印顆による印影でも印影以外の部分に汚れが生じることはあるし、写真孔版による印影に汚れがないこともある。
4 副印鑑によって、通帳と印鑑があれば、取扱店以外でも預金の払戻が可能となる。これは、顧客からの強い要望があって導入されたサービスである。副印鑑を利用し、取扱店以外での預金の払戻をし、利便性を享受している顧客は数えきれないほど多数にのぼる。副印鑑を利用する顧客が大多数である以上、副印鑑を付することを通例とする銀行実務を不当ということもできない。
また、副印鑑の存在と本件の発生には、通帳の盗難と印鑑の偽造という二つの犯罪行為が介在しているのであり、副印鑑の存在を本件の原因と決めつける原告の主張は暴論というほかない。
(原告の主張)
1 本件印影と届出印影との間には、次のような相違がある。
(一)本件印影は全体的に線が太く、かつ滲みがある。(二)外枠の円が全体的に歪んでいる。(三)外枠の円の線が部分的に直線で丸みがない。
預金通帳に捺印されている副印鑑の印影から払戻請求書に同一の印影を検出することは、「プリントゴッコ」様の文具を用いて容易に可能であり、かつ過去に銀行業界において同様の方法による偽造事件の例があったのであるから、他人の財産を預かることを業とする銀行としては、かような方法による偽造もあり得ることを前提として、印影の照合にあたっては単に文字の形や大きさのみでなく、線の太さ、歪み、滲み等本件のような偽造方法による場合に特徴的に現れる相違点をも細心の注意で熟視して判別すべき義務があり、少しでも疑問がある場合には再度の押印を求める等しかるべき方法により確認すべき義務がある。
2 本件預金の取扱店は高田馬場支店であり、本件払戻は池袋東口支店である。同店設置の防犯用ビデオテープの映像によると、本件払戻請求者は、一見二十代の若者(男性)で、トレーナー姿で、同伴者らしい人物は見あたらない。このような①風体の若者が、②一人で、③取扱店以外の店頭で、かつ、④開店間もない時間帯に、⑤何らの事前の連絡もなく、⑥一五〇〇万円という大金を、しかも⑦現金で払戻請求をすることはまさに異例である。このような払戻請求に対しては何らかの疑問をもつのがむしろ当たり前であり、払戻窓口担当者としては、印影照合もさることながら、請求者の人物、風体等その場の全状況と合わせて総合的に判断すべき義務がある。
3 預金払戻請求書に使用される印影は、印顆の押捺によって作り出される印影であることが必要であり、従ってこれが印刷物であったり、印影のコピーであったりするときは、届出印影と同一性の照合以前の問題として、銀行は当該払戻請求に応ずる義務はなく、また応じてはならない。そこで銀行としては、印影の同一性の照合の前提として、それが印顆の押捺による印影であるか否かを判定する必要がある。すなわち、印影が印刷物やコピーではなく、印顆による印影であることを確認することがまず必要であり、特にコピー技術の発達めざましい現代の情報社会においては、特に注意をもってこの判定をしなければならない。B及びCの照合方法は、「残影照合」「平面照合」であり、これらはいずれも印影の形状のみに着目した従来型の照合方法であって、この方法による場合は、正規の印影を基にした印刷物ないしコピーはすべて同一の印影と判定されることになり、それが印顆押印によって作出されたものか否かを判定する方法としては無力に等しく、この点が全く看過されている。本件印影において、印刷物による偽造であることは次の点に特徴的に表れている。
(一) 孔版印刷による印影の偽造の場合は、印影画線に印肉ないしインクが凸状に付着しており、印顆の押捺による印影に生ずる大きな特徴の一つであるマージナルゾーンが生ずることはない。マージナルゾンとは、印顆の凸部についた印肉が、紙面に転移する際に押印圧によって印顆凸部に押し出されるために生ずるもので、印影の画線の周辺に生じている濃い輪郭部のことであり、着肉量が多い場合や、押印圧が強い場合に生じやすいものである。本件印影は、これが印顆の押捺によるものである場合は、画線の太さからいって相当多量の着肉量と強押印圧によって作出されたものということになるが、本件では、そのような場合に特徴的に現れるマージナルゾーンが見られない。
(二) 孔版印刷による偽造では、印肉が使われず、特殊インクが用いられているので、簡易な分析器でその組成が判別できる。(三) 特殊インクによる画線の凸状は作成間近なほど顕著であり、紙面に凸状に固まった状態となっており、印顆の押捺による印影とは著しく異なる。(四) 特に、写真孔版による偽造印影では、印影以外の部分(画線以外の部分)にも印肉ないしインクが付着して、汚れを生じていることが少なくなく、本件印影にもその特徴は現れている。以上の観点から、本件印影と届出印影とを比較検討すると、本件印影には、線のギザギザが各所に認められ、また画線の間に普通の押捺では見られない飛び散り様の赤点が点在しており、その他前記指摘の画線の相違点も、印刷物であるが故の相違点として顕著なものである。
本件のような写真孔版の方法による偽造印影が指摘されて既に一〇年以上になり、またその間の当該分野の技術の進歩によってますます簡易にかつ精巧に偽造印影が作成されるようになっているにもかかわらず、旧態依然として「平面照合」と「残影照合」のみによって相当の注意をもって照合したとする被告の対応は、他人の財産の保管という重大な責務を負う銀行としてはまことにお粗末というほかない。払戻請求書の印影照合にあたっては、光学的な分析器具の設置やしかるべき専門技術の習得等万全を期した対応をすべき義務がある。
4 副印鑑の制度は、他支店での払戻を可能にするという顧客サービスの面もあるが、それ以上に、銀行における届出印鑑との照合事務の簡便化のために始められた制度といわれている。副印鑑がない場合、銀行は、払戻請求に対しては、その都度印鑑簿上の届出印鑑との照合を要することとなり、事務の煩雑化となる。副印鑑を採用することは、この銀行の照合事務の簡便化となるが、他方通帳には届出印が押捺されており、誰でもこれをみることができる状態にあるので、副印鑑がない場合より危険性が高く、従って銀行は、この危険性を認識したうえで、預金者に対してその危険性を十分周知させ、その承諾のもとに副印鑑制度をとるのが取引の原則とされている。
本件で盗難にあった原告の預金通帳は、平成七年一二月二五日ころに新通帳として切り替えられたものであるが、被告高田馬場支店では、新通帳作成にあたって、当然のこととして旧通帳の表紙裏面に貼付されている副印鑑票をはがして新通帳所定の場所に貼り替えて本件副印鑑を作成しており、そこには銀行としての預金者に対する注意喚起のための説明、預金者の承諾もなされた経緯はなく、預金者による押捺という行為さえもない。
このように、本来預金の安全確保の立場から見た場合、極めて危険性の高い副印鑑制度が、あまりにも安易に且つ預金者の意思の働かないところでとられているということは、本末転倒であって、銀行がもっぱら自己の照合事務簡便化のためにのみに行った勝手な行為というべく、それによって発生した事故に対して責任を負うべきである。
さらに、副印鑑制度を採用している場合の印鑑照合及び預金者同一性の確認にあたっての銀行としての注意義務の程度は、印影が通帳に顕現していることから、これを利用した種々の印影偽造の方法があることの危険性に鑑み、通常の場合より一層慎重な注意が加重されるというべく、また預金者の同一性確認においても、本人か代理人かの確認や再度の押印を求めるなど、種々の手段を使っての慎重な対応が要求され、より一層の注意義務が加重されるというべきである。
三 争点に対する判断
1 前記争いのない事実及び<証拠省略>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(一) 何者かが、平成八年一二月二六日ころから平成九年一月一七日ころまでの間に、当時の原告方に侵入し、原告所有の本件口座の通帳等を搾取した。ただし、本件口座の届出印鑑は搾取されなかった。
(二) 平成九年一月一六日現在において、本件口座の普通預金残高は、一七五八万七〇五六円であった。翌一七日午前九時二五分ころ、被告池袋東口支店窓口において、二十代後半から三十代くらいの黒っぽいセーター姿の男が、本件通帳及び払戻請求書を同支店窓口係のBに提出し、普通預金一五〇〇万円の払戻しを請求した。一五〇〇万円という高額の払戻請求なので、Bはその男に、事前の連絡があるかを尋ねたが、その男は事前連絡はしていないと答えた。しかし、支店に現金があれば払戻しに応じることになっていたので、Bが支店の現金の残高を確認したところ、残高が十分あったため、Bは払戻手続を進めることにした。Bは、副印鑑の上に払戻請求書の印影を重ね、払戻請求書をめくったり戻したりして、払戻請求書の印影と副印鑑を交互に見て、印影の同一性を見る残影照合という方法で、本件印影と副印鑑の印影を照合し、同一であると判断した。
(三) 本件払戻請求は、本件預金口座の取扱店である高田馬場支店ではなく、池袋東口支店でなされ、かつ、払戻請求額が一〇〇〇万円以上であったため、Bは、被告の取り決めに従って、上司である業務課長代理Cの決裁を仰いだ。Cは、被告の取決めに従って、取扱店に連絡を取り、普通預金印鑑届をファックスしてもらい、また、事故届が出ていないことを確認し、かつ、C自ら、本件印影と副印鑑の二つの印影を並べて見比べる平面照合という方法で照合してから、残影照合をし、同一であると判断した。
(四) 右のような手続きをとったため、本件払戻請求から払戻しまで、三〇分ほどかかったが、払戻請求をした男性に不審な様子はなく、Bは、一五〇〇万円を払戻して右男性に交付した。
(五) 本件通帳は右男性が持ち帰ったため、現在、本件通帳に押捺してあった副印鑑を見ることはできない。しかし、届出印影と副印鑑は、同一の印顆による印影であるから、双方の印影はほぼ同一であるとみられる。
そこで、本件印影と届出印影を比較対照してみるに、両印影は、文字及び枠の形、大きさ等その形状はほぼ同一であり、重ね合わせてみる限り、相違点は認めがたい。しかし、本件印影は、全体としてぼてっとした感じであり、画線が太めで、より詳細に対比すると、輪郭線の一部が歪んでいることが認められるが、このような差異は、朱肉の種類、付き具合、押捺の仕方によって、同一の印顆によっても生ずることのありうる相違とみる余地がある。
(六) 本件印影を拡大鏡等を使用して専門家が検分した結果によれば、本件印影はプリントゴッコ等の写真孔版印刷による偽造の可能性が大きい。
2 本件免責条項にいう、被告が払戻請求書の印影を届出の印鑑と相当の注意をもって照合し、相違ないものと認めて取り扱った場合とは、民法四七八条の定める債権の準占有者に対する弁済の一場合を注意的に規定したものにすぎず、被告が免責されるには、払戻請求を行った者が正当な権利者であると被告が信じたことに過失がなかったことを要するものと解するのが相当である。
そして、銀行の印鑑照合を担当する者が、払戻請求書の印影と届出印の印影又は副印鑑とを照合するにあたっては、特段の事情のない限り、拡大鏡による照合やインクの成分分析までの必要性はなく、肉眼による平面照合の方法をもってすれば足りるものと解される。この場合、担当者は、銀行の印鑑照合を担当する者として、社会通念上一般に期待される業務上の相当の注意をもって慎重に照合を行うことが要求され、右事務に習熟している銀行員が右のような注意を払って熟視するならば、肉眼で発見しうるような印影の相違が発見しうるのに、そのような印影の相違を看過した場合には、銀行には過失があり、民法四七八条はもとより、本件免責条項の適用もないものというべきである。
3 これを本件についてみるに、本件払戻しは、取扱店以外の支店で一五〇〇万円もの大金の現金による払戻請求であるから、慎重な確認が要求されるというべきではあるが、被告池袋東口支店においては、被告の内部取り決めに従って、通常の払戻し以上に慎重な手続をとることとし、窓口担当者が残影照合による照合をしたばかりでなく、上司の決裁を仰ぎ、取扱店に連絡して普通預金印鑑届をファックスしてもらって確認し、かつ事故届の有無を確認し、さらに、右上司においても残影照合と平面照合をなして本件印影と副印鑑の同一性を確認し、その間払戻請求者に不審感を抱かせるような具体的な状況はなかったのであるから、担当者としては、右残影照合及び平面照合により印影の一致が確認できれば、それ以上、払戻請求者が正当な権利者であるかどうかについて確認する義務はないというべきである。そして、前記のとおり、本件印影は、届出印影とその大きさ及び形状がほぼ同一であり、両者の相違点は、朱肉の種類、付き具合、押捺の仕方によって、同一の印顆によっても生ずることのありうる相違とみる余地がある範囲にとどまっている。したがって、印鑑照合事務に習熟している銀行員が相当の注意を払って慎重に平面照合したとしても、本件印影と副印鑑が別異の印顆によるものであるということを容易に発見しがたいということができる。
また、本件印影は不鮮明なわけではなく(乙三)、右のとおり、肉眼による残影照合、平面照合では、本件印影と副印鑑は同一性に疑問がもたれなかったのであるから、このような場合は、照合担当者が、払戻請求者に改めて押捺を求める必要性を感じなかったとしても、やむを得ないというべきである。
ところで、払戻請求書の印影は印顆の押捺によるものでなけれならず、コピーや印刷によるものであってはならないことは当然であるが、<証拠省略>によれば、本件印影は写真孔版印刷によって偽造された可能性が大きいものの、本件印影が印顆の押捺によるものでないことは、専門家であっても、拡大鏡を使用しなければ判断できないことが認められる。銀行員の印影照合にあたっては、特段の事情のない限り、肉眼をもってすれば足りることは前記のとおりであり、また、拡大鏡を使用したとしても、偽造印影についての専門家ではない銀行員に、本件印影が印顆の押捺によるものではないとの判断が可能であるとの証拠はない。
以上によれば、印影照合を担当したB及びCが、本件印影が届出印顆の押捺によるものではないことに気づかなかったとしても、右両名に過失はなく、また、本件において、右照合以外の確認方法をとるべきであると認めるに足りる特段の事情は認められず、本件払戻しにつき、被告に過失は存しないというべきである。
4 なお、通帳に届出印を押捺する副印鑑の制度は、本件のような写真孔版印刷による印影偽造の危険性を伴うところ、現在、顧客においても銀行においても、この危険性にさほど注意を払うことなく、通帳に副印鑑を押捺する運用が多くなされている。これは、副印鑑の制度により、顧客は通帳と印鑑があれば取扱店以外でも預金の払戻が可能となり、また、銀行は届出印鑑との照合事務が簡便になり、その結果、顧客にとっても、払戻手続が迅速になるなどの利点があるからであり、一応の偽造防止策として、副印鑑の上に格子上の線を書いたシールを貼る方式がとられることが多い。本件のような印影偽造の危険性を考えると、印影偽造防止対策として右シールより有効な手段がとられることが望ましいことはいうまでもないが、右のように副印鑑制度は銀行ばかりではなく顧客にとっても便利である一方、副印鑑を利用した印影偽造が希ではなく存在するとの立証もないのであるから、現在の副印鑑制度が不合理であって、副印鑑制度が利用された事故に対して銀行がすべての責任を負うべきであるということはできない。
5 以上によれば、本件払戻しは有効であるから、原告の請求は理由がない。よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 白石史子)